
毎年、地元の南小学校のこどもたちとその保護者の方たちが、授業「名所めぐり」でお寺を見学しています。
先日、写真と感想文を届けてくださいました。お寺の歴史などをお話し、旧陸軍墓地にもお参りしました。
頂いた感想文の中にもありましたが、戦争で亡くなった若者たちのお墓を目の前にして、その一人一人に私たちと同じように夢があり家族があったこと。それを忘れないでほしいと思います。
将来の夢、家族、友達、大切な人、それを失うのが戦争である。
今は亡くなれば、しっかりとお墓に入ることができます。しかし、激戦の地であったパラオ諸島などには、今なお戦争で亡くなった若き日本兵のお骨がジャングルの中にあります。
死してなお故郷に帰れないのです。家族はお骨さえ見ることができないこともある。
これからの日本の平和を築いてゆくこどもたちに、大人が残していかなければならないものは何か?私は、綺麗ごとや思想などではなく、歴史上の事実や現実をしっかりと伝えることだと思います。
後はこどもたち同士が、様々なことを考え、想い、話し合ってゆくことが大切なのではないか?
そのようなことを今回頂いた感想文から感じ、私自身とても良い経験をさせていただきました。

夕日と白梅です。龍廣寺では、ちょうどいま白梅が見頃になりました。紅梅とのコントラストがとてもきれいです。
冬が明けいよいよ春、花や若葉が芽吹き虫たちが活動する季節の到来です。花粉がこの二日間、非常に多く舞っていることを身体で感じ、そんなことを想いました。
止まらない鼻水や涙、頭痛、花粉症の人が「同じ空気吸ってるのに不公平だ」と、言っているのを耳にしたことがあります。
その気持ちはとても分かります。しかし、私たちは同時に梅や桜の花を愛でることができます。
当たり前のことと感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、とても素晴らしい心がもともと備わっているのだなと感じるのです。


本日晴天のなか、例年のお焚き上げ法要を厳修することができました。
海外の方に仏壇の説明をするとき、「ホームチャペル」という言葉が使われることがあります。と同時に日本人の七割が家に仏壇があることを話すとその信仰にとても驚くそうです。
他の宗教では、身に十字架を身に着けたり、定時に礼拝することはあっても仏壇ようなものはほとんどの場合ないようです。
お釈迦様の教え、その根本は「移ろいゆく世の中で、さまざまなお蔭様で生かされている」無常と縁です。
お仏壇の中にある位牌、この私に連なる縁が最もわかり易く目に見える形であるものです。
毎朝のひと時、または寝る前のひと時、お仏壇にお線香を挙げ手を合わせ、呼吸を落ち着けてみてください。大きく息を吐いて、また大きく息を吸う繰り返すうちに心が落ち着きます。
忙しく心が忙殺される毎日だからこそ、日々感謝の心を新たにする場所が今の日本には必要なのではないでしょうか?。

先月の26日、お施食会というご先祖様の供養法要がとりおこなわれました。一三〇名以上の方に参加いただき、ありがとうございました。
今年の法要の前は、茨城県笠間市、高寅寺北條和之老師にお話をしていただきたきました。演題は「四つの大切な食べ物」として、お釈迦様の四食(しじき)の教えについてお話でした。
・段食(だんじき)→普段私たちが口にする食事のことです。段々に食材をを切り、加工され最後に歯で噛み、身体に吸収されていきます。
・触食(そくじき)→人と人が触れ合うことです。家族、友人様々な人とのふれあいがないと、心の栄養が無くなってしましいます。
・意思食(いしじき)→意思とは意志のことです。自分自身の生活に指針を持つことです。夢や目標をもっている人は生き生きします。日々のささやかな指針も大切なことです。
・識食(しきじき)→目で見たり、耳で聴いたり、肌で感じることすべてです。会社や学校で感じること、周囲の環境もまた私たちにとって大切な心の栄養です。
これらの四つは私たちが生きる上で食事のような大切なものということを、北條老師自身の修行や家族との体験を通してお話してくださいました。
食べ物とは私たちが生きる上でなくてはならないものです。しかし、食べなければ栄養がなくなり、食べすぎても栄養過多で糖尿肥満などと同じように身体を壊す。同じ他の三つもそのことにこだわりすぎてしまうと、逆に心の不調をきたす原因になりかねないと話されていたことが、特に印象に残りました。
来年も秋のお彼岸の最終日にお施食会をいたします。是非ご参加して仏法に触れる機会にしてただければと有難く思います。

夏、龍廣寺の門は夕方の六時に閉まります。しかし、八月の十五日と十六日の二日間だけは、門が開けられ提灯の燈が消える六時半過ぎまでお参りができます。
今でも稀に、お盆の入りの日にお寺に提灯の燈をもらいに来る方がいらっしゃいます。もともとはその燈に導かれて、祖霊が自宅に帰ると言われていました。
お寺から連れて帰り、ご自宅にお迎えすることから迎え盆と言われています。
逆に十五日と十六日は、送り盆です。ご自宅から送り出すことからそう言われています。
つまり、その日はお寺にとっては迎え盆になります。ご自宅からお戻りいただく道しるべになるように、本堂の正面で提灯に明かりを灯すのです。
この時期にお寺に提灯がつるされているのはそのためです。
さて、こんなことを言うと決まって、「じゃぁ普段は仏壇にご先祖様はいないのか」、「帰ってこないだろお墓にいるんだから」という批判がなされる時代になったと思います。
心が行いに、行いが心になるのが私たちではないでしょうか?
お墓参りに行き手を合わせ、お線香をあげる「なんとか毎日がんばってるよ」「今年も暑いなー」なんて様々な報告をすることがあります。毎朝仏壇で、「行ってきます」と手を合わせる。
そんな時、確かに亡き方に心を馳せ、出会っているのだと思います。
しかし、お盆も墓参りも意味のないものだと何もしなければ、忙しい毎日、亡き大切な方を想う時も無くなってしまうのかもしれません。
節目節目を大切にしろ。それは人間のすばらしい智慧です。節目の無い竹はグニャっと曲がるのです。
お盆に、近しい親族や仲の良かった人が集まり、お酒やおいしいものを囲み、亡き方やご先祖様のことを語り合うことがなによりも大切なことなのです。
それは巡り巡って、自分の中に流れている命の重み有難さを見つめ、自身の普段を省みることになるからです。

蘇鉄は、弱った時に根元に鉄釘をさすと蘇ったという逸話からその名がつけられた樹木です。
境内にある蘇鉄の木に花が咲きました。十年に一度あるかといわれるとても珍しい蘇鉄の花です。
私も花が咲くのを初めて見たのですが、、、この黄色い棒状の花が咲くのが雄の木なのです。つまり、境内にある蘇鉄が雄だったということを初めて知ったのです。
次にこの木が花をつけるのは何年後になるのか、、、
数年前大流行したSMAP『世界に一つだけの花』
「NO.1にならなくてもいい
もともと特別なOnly one
花屋の店先に並んだ
いろんな花を見ていた
ひとそれぞれ好みはあるけど
どれもみんなきれいだね
この中で誰が一番だなんて
争う事もしないで
バケツの中誇らしげに
しゃんと胸を張っている
それなのに僕ら人間は
どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのにその中で
一番になりたがる?
そうさ 僕らは
世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かさせることだけに
一生懸命になればいい」
こんな、歌詞がいたるところで流れていました。
十年に一度、枯れず、釘を打ち込まれ、大地に根を張り、雄々しい花を咲かせる蘇鉄。
みなさまはそんな蘇鉄の花に何を想うでしょうか?

二泊三日の日程で、長野県軽井沢にあります青松寺別院様において眼蔵会が行われました。
禅の修行道場であります永平寺、その永平寺を開かれた道元禅師さまには『正法眼蔵』という九十六巻(諸説あり)にもおよぶ大変難解な書物があります。
その書物の講義を受ける会です。朝の坐禅から始まり、朝課諷経、坐禅道場での精進料理、坐禅を組みながら講義と受け、日中諷経、坐禅道場での精進料理、講義、晩課諷経、坐禅道場での薬石、講義、、、と
坐禅を何時間もくみ仏法の教えに向き合います。

講師をお勤めくださったのは、古坂龍宏老師です。言葉の上だけでなく、そのお姿やたたずまい全身で語るその仏法の姿に、私をとりまく大自然と同じ命の力が溢れているように感じるのです。
同じ言葉、短すぎる言葉にもかかわらず、その発する人によって全く深みが変わるものがある。それは、どのような職業でも生き方でも、偽りなくその道を歩み続けた人が身につけた言葉だからなのでしょう。
私自身、口先だけの人間、重みのない人間、にならぬようしっかりと道を歩んでいきたい。
そんな想いを新たにした眼蔵会でした。

先日、早朝坐禅会がありました。朝の静けさの中、静かに坐りお粥を食べていただきました。
写真は、三人寄れば文殊の知恵で知られる文殊菩薩様です。如来の姿ではなく、僧侶の姿で修行をしているのは珍しいかもしれません。
文殊菩薩様は、聖僧様と呼ばれ、永平寺の僧堂でもおまつりされています。
僧堂とは、朝夕の坐禅修行の場でもあり、坐禅を組み、朝昼の食事をいただく場でもあり、睡眠をとる場所です。その中央に智慧の仏様をいただき、見守ってもらうのです。

龍廣寺での坐禅会が終わったあと、すべてのざふを日干ししている様子です。

4月8日に高崎市仏教会で花祭りを開催しました。38名もの御稚児さんが集まってくれました。衣装に身を包み保護者の方と一緒に、高商の吹奏楽部の演奏に先導され、さやモールから下横町の向雲寺さんまで歩きました。
御稚児さんたちが健やかに成長できることをご祈念もうしあげます。

墓地より見える、観音山に沈む夕日と花吹雪です。
この度は、昨年末に亡くなられた奈良康明先生の言葉を紹介します。駒沢大学の総長を務め、晩年まで曹洞宗第一修行道場である永平寺において西堂として、私たちを僧侶を接化し続けた方の言葉です。
「慈しみの心は訓練して育てるものである」
「誰って自分を大切に思う、同じように他者も自分自身を大切に思う。だから自分と同じように他者のことを考え思いやりをもって接しよう」
「さまざまな人と関わる中で腹の立つこともある。実践することの難しさを実感する」
「しかし、自分に言い聞かせて努力するうちに、身についてゆく」
そんな言葉を残されました。人を思い遣るというのは、誰でも知っている当たり前のことです。しかし、それを実践する難しさ。
一生涯努力し、自らに言い聞かせ実践してきた先生の言葉は、これから私たちがどう生きていかなければならないか、考えさせられます。