夏、龍廣寺の門は夕方の六時に閉まります。しかし、八月の十五日と十六日の二日間だけは、門が開けられ提灯の燈が消える六時半過ぎまでお参りができます。
今でも稀に、お盆の入りの日にお寺に提灯の燈をもらいに来る方がいらっしゃいます。もともとはその燈に導かれて、祖霊が自宅に帰ると言われていました。
お寺から連れて帰り、ご自宅にお迎えすることから迎え盆と言われています。
逆に十五日と十六日は、送り盆です。ご自宅から送り出すことからそう言われています。
つまり、その日はお寺にとっては迎え盆になります。ご自宅からお戻りいただく道しるべになるように、本堂の正面で提灯に明かりを灯すのです。
この時期にお寺に提灯がつるされているのはそのためです。
さて、こんなことを言うと決まって、「じゃぁ普段は仏壇にご先祖様はいないのか」、「帰ってこないだろお墓にいるんだから」という批判がなされる時代になったと思います。
心が行いに、行いが心になるのが私たちではないでしょうか?
お墓参りに行き手を合わせ、お線香をあげる「なんとか毎日がんばってるよ」「今年も暑いなー」なんて様々な報告をすることがあります。毎朝仏壇で、「行ってきます」と手を合わせる。
そんな時、確かに亡き方に心を馳せ、出会っているのだと思います。
しかし、お盆も墓参りも意味のないものだと何もしなければ、忙しい毎日、亡き大切な方を想う時も無くなってしまうのかもしれません。
節目節目を大切にしろ。それは人間のすばらしい智慧です。節目の無い竹はグニャっと曲がるのです。
お盆に、近しい親族や仲の良かった人が集まり、お酒やおいしいものを囲み、亡き方やご先祖様のことを語り合うことがなによりも大切なことなのです。
それは巡り巡って、自分の中に流れている命の重み有難さを見つめ、自身の普段を省みることになるからです。