史跡

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高崎城初代藩主井伊直政の供養塔
「当時開基、祥寿院殿清凉泰安大居士、慶長七壬寅年二月朔日、髙﨑城主兵部少輔井伊直政」の碑銘が刻まれている
俳人村上鬼城の墓
俳誌「ホトトギス」を代表する俳人として活躍。正岡子規や高浜虚子とも交流のある日本を代表する詩人のひとり。龍廣寺と鬼城とのご縁はある古老の話によると「古くは明治初期からの檀徒、吉川家との関係にもよるが、よく散策したであろう龍廣寺の境内、そしてそこに可憐に咲く白い萩。鬼城はこよなく白萩を愛でたという。そして、村上家の墓所もこの寺の墓域の一隅にと考えたのではないか」と伝えられている。
村上鬼城の句碑
「大寺や松の木の間の時雨月」、境内には他に「泉わくやときどき高く吹き上ぐる」の句碑も建立されている。
陸軍墓地
現在255基の墓石と日清日露、満州事変、太平洋戦争パラオ諸島戦没者の慰霊供養塔がある。
元ロシア人兵士の墓
日露戦争に出兵した高崎15連隊は、10人のロシア軍捕虜を連れて戻り、龍廣寺に抑留した。そのうち三人が亡くなり、ここに葬られた。太平洋戦争で破壊される心配をした当時の住職が、地下に埋め隠した。その後、日ソ協会高崎支部との協力により改修された。