龍廣寺の紅葉もそろそろ終わり、冬の足音がすぐそこまで聞こえる時期になりました。
江戸時代の禅僧、良寛和尚さんのこんな句があります。
「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」
私たちの眼を楽しませてくれるもみじが、散り、風にふかれ、ヒラヒラと舞ってゆくその様。
晩年に良寛和尚さんが、自身の命に散りゆくもみじを重ねた句です。
泣いて、笑って、苦しんで、楽しくて、うれしくて、悲しくて、散ってゆく命。
風に舞うもみじのように決して思い通りにならない人生。
でも、たくさんの人がその美しさに惹きこまれ
散ってさえも、石畳を彩るもみじの赤に、おもわず眼を落す。
数百年たってなお、良寛和尚さんの言葉が、私たちを惹きつけるのはなぜか。
私たちの中にも、たとへその人がもういなくとも忘れられない言葉や想いがあるのではないでしょうか?
ある会社の方たちが、研修ということで夜坐禅に来てくざさいました。
曹洞宗の本山である、福井県の山奥にある永平寺。禅の修行道場として鎌倉時代に開かれました。
私も数年前までそこで修行させてもらっていましたが、今でも朝晩に坐禅をしています。
時間になおせば、朝晩それぞれ一時間半くらい。
朝の坐禅を暁天坐禅といい、薄暗い坐禅道場の中、日の昇る前から、朝日が顔を見せるまで坐ります。
夜の坐禅を夜坐といい、就寝する直前まで坐り続けます。
両の膝とお尻の三点で体を支え、坐蒲に腰を下ろすころで起き上がった骨盤に頭のてっぺんからまっすぐに重心をしたに下ろしてあげる。畳に根を張るかのように坐る。
人の本来の呼吸、人が寝ているときのような、深い深い腹式呼吸に戻してあげる。
心を心のままに、頭に浮かんできたものを自分の我でこねくり回し落ち込んだりイライラしたりしない。浮かぶに任せそのままに。
なんの生産性のもない時間の無駄な使い方という方もあるでしょう。なんて贅沢な時間の使い方だという方もあるでしょう。
でも私は自分の身心が生きていることに向き合うことは何よりも大切だと思うのです。
頼まれなくても動いてくれている心臓があって、さまざまな音が聞こえてきて、さまざまな香りに囲まれいることに気づく。呼吸にさえ気づいていない私たち。
普段私たちはそんなことさえも気づかず忘れていませんか?
修行中、正直坐っていると、足はものすごい痛いし、雪深いところですので凍えるように寒い、睡眠不足で眠い、心の葛藤、ただ坐っていること、何もしないということがここまで辛いのかと思いました(笑)
でもそれも含めて私たちに大切なことを教えてくれているのだと思うのです。
供養、供養、と言葉では聞くけれどどんな意味があるのか?
「養う」というのは、亡き方の冥福を祈り安らか眠れるよう、その想いを「供える」から供養でという字を書きます。伝統的にはそう解釈されてきましたが、 私はそれだけではないと思うのです。インドのベンガル地方に残る伝統的な仏教では、葬儀のさい、亡き方が残された私たちにしてくれた善きことを一つ一つ枕元でみんなで数えてゆく、そんな風習がのこっています。なぜその場で、亡き方のご縁に繋がる人たちが集まりそんなことをするかといえば、亡き方が私たちの心、魂の残してくれたことを確認して、今度はその善い行いを一つ一つ自分のこととして、これからの生活の中で実践しともに生きるということからです。それこそ生と死を超えて「供養」読んで字通りともに養しないあうって生きてゆくということなのです。この「共」と「供」ほとんど同じ意味がありますけれど、一番の違いは人偏です。人という字が付くところです。お線香をあげる、法要をすることもそうですが、亡き方が悲しむような生き方しないで元気でやってるよって言えることが一番の供養なのではないでしょうか。
お施食会にちなみまして、静岡県より龍潭寺前ご住職に来山していただき、井伊直虎公と直政公のお話をしていただきました。大河ドラマで柴咲コウさん演じる次郎法師が育ったのが龍潭寺です。そして、菅田将暉さん演じる直政公が徳川四天王となり関東へ出たのち建立した寺が龍廣寺です。そのような繋がりから、この度の講演をお願いしたところ快く引き受けていただきました。どのような社会背景があったのか、大河ドラマではわからない部分まで丁寧にお話いただきました。
夏の暑さもひと段落した今日この頃、皆さまいかがお過ごしでしょうか?初盆を迎える方に準備してもらっている提灯についてお話させていただきます。
13日、14日の「迎えお盆」お墓参りにいき故人を迎え、家の仏壇に火を灯す。15日、16日の「送り盆」では、お寺に故人を送りにゆく。お寺にとってはお迎えすることになるので、提灯に火を灯すのです。
国民的な休日、故人の縁に繋がる方が集まって想いを馳せる。「やさしさ」や「厳しさ」等、故人の好きだったものでも食べながらみんなで話をする場であってほしいと思います。その受け継いだものは、自分自身の命の重みでもあり、目には見えないですし学校でも教えてはくれないが、人を思い遣るというとても大切なことを私たちに教えてくれているのではないでしょうか?
最近では、仏教や禅ブームとも言われ、メディア等でもよく取り上げられるようになりました。その火付け役ともなったのが、アップルの設立者の一人であり、映画「トイ・ストーリー」や「ファインディング・ニモ」を世に生み出したスティーブ・ジョブズではないでしょうか? マインドフルネスや瞑想に熱心だったといわれていますが、実は彼が師事したのは新潟県出身の曹洞宗の僧侶でした。そのもとで坐禅を学び続けたのです。
坐禅というと、どのような印象をおもちでしょうか?「背筋を精一杯伸ばし厳しい修行で精神を鍛えるものだ」、「悟りを開くものだ」と考えている方が多いように思います。
けれどそれは少し違います。坐禅とは「何かの為にする」ことを辞めた姿です。例えるならば、今まで背負って歩いてきた荷物を、肩からおろして一休みするようなものです。
私たちは、物心つく前から人と比べ、どれだけ勉強ができるか、どれだけ良い人か、どれだけ人の役にたてているか、他人と比べ続け価値観やアイデンティティの確立のために奔走しています。少し前のNHKのキラーストレスの番組でもいわれていましたが、そのためにいつも心が戦闘状態にある。心が疲弊してしまう。
すると不思議なもので、姿勢が前のめりになり、肩が凝り、視野が狭く、呼吸も早く浅くなっていた。どれだけ奥歯をかみしめていたのか。気付かないうちに心だけでなく体のバランスまでも崩れていってしまう。
二五〇〇年以上も昔から、一番人間の身体が安定する姿勢と言われてきた形が坐禅です。身体も心も疲弊し、戦闘状態にあるときは気付きませんが、世の中のしがらみをいったん脇において、身体を調え、呼吸を調え、心を調えて坐る。すると私たちの身体が、どんな時であっても自然と呼吸をし、その場の香りを感じ、まわりの音を耳にしていたことに気付くのです。
日々の忙しさの中で見失った自分を原点に戻し、もう一度大切なことを見つめて生きてゆく。今、坐禅がこれだけの注目を集めているのは、激動のストレス社会と言われる時代だからこそではないでしょうか?
「人が亡くなると、魂はその人が愛したモノのところへゆく」
とある講義での、青森県下北半島にある恐山院代南直哉老師の言葉、イタコで有名な恐山の院代の言葉が私の耳にいつまでも残っています。
その後、南老師は「だから私たちは、亡くなった人のことを思い出すんだ。思い出したくなくたって、思い出していしますのはそのせいだ」と、言ったのです。
私たちは、大切な方が亡くなってしばらくたっても、食事の最中、「あぁこれ好きだったな」「これは嫌いだったな」と思い出したり、箪笥や手紙の整理をしている最中、思い出が溢れてきたりと、ふと瞬間に何故かいろいろなことを思い出すことがあるのではないでしょうか?
魂、そんな不確かなもの、眼で見たこともないもの信じないという方も多いことでしょう。しかし、大和魂といえば、日本人として生きる意味と価値です。武士の魂といえば、サムライとして生きる意味と価値です。その魂から溢れでたものが私たちの生き様です。魂とは、不思議なことに昔からこの自身の命の意味や価値を表すものでもありました。
こんなことないでしょうか?周りの人に、日常の何気ない仕草や口調、食事のとり方など、さらには後ろ姿まで、
「そうゆうころ亡くなったお父さんに似てきたね」
「だんだんおかあさんにそっくりになってきちゃて」
なんて言われたこともあるのではないでしょうか?私たちの心、人や家の中、さまざまな場所に亡き方の姿は見えなくても、その生き様が染み込んでいて、きっとそれが亡き方の魂のゆくえなんだと、そう私は思うのです。
ソメイヨシノの後にひっそりと咲く薄緑の桜です。平安時代の貴族の衣「萌黄色」に近いことから、この「御衣黄桜」という名がつきました。春の葉の芽吹きとともに咲く桜。気に留めなければ、気づくことのないほど控えめで落ち着いたその花。その花言葉が「永遠の愛」「優美」「心の平安」「精神美」ということに日本の美しさを感じずにはいられません。
4月8日の花祭りは、およそ2500年ほど前にお釈迦様がお生まれになった日を記念して行われるようになりました。お子さんたちのこれからの健康と幸せを願うお祝い事です。本年も4月2日に高崎市仏教会では、40名以上のお子さんたちが参加して、高校生の吹奏楽部先導のもと稚児行列がさやもーるを出発し、花祭りを行いました。
上の写真は、満開になった龍廣寺墓地のさくらです。