「高崎」の由来

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 慶長三年(1598)井伊直政が幕府の命により箕輪から和田宿へ移り住み、城地を決定するために、鷹を放ったところ、現在の城跡の松の木にとどまったという、旧称「和田」を改めて、鷹が崎にしたら、いや、松が崎がよいと議論百説が出て決まらなかった。

 そこで、城主直政は箕輪時代から信頼厚かった箕輪龍門寺の僧、白庵秀関の意見を求めた。白庵は「生物には、生死栄枯あり、公が命を奉じて、この城を築かれることは、盛事大名である。成功高大の義を取って『髙﨑』とされては」と答えた。

 直政はおおいに喜び、「和田」を改め「髙﨑」と命名。これによって、白庵秀関が龍門寺より移住して開いた龍廣寺の山号を、「髙﨑山」とするよう命ぜられたという。

(近藤章氏「龍廣寺物語」より一部抜粋)