蘇鉄の花

蘇鉄は、弱った時に根元に鉄釘をさすと蘇ったという逸話からその名がつけられた樹木です。

境内にある蘇鉄の木に花が咲きました。十年に一度あるかといわれるとても珍しい蘇鉄の花です。

私も花が咲くのを初めて見たのですが、、、この黄色い棒状の花が咲くのが雄の木なのです。つまり、境内にある蘇鉄が雄だったということを初めて知ったのです。

次にこの木が花をつけるのは何年後になるのか、、、

数年前大流行したSMAP『世界に一つだけの花』

「NO.1にならなくてもいい
もともと特別なOnly one

花屋の店先に並んだ
いろんな花を見ていた
ひとそれぞれ好みはあるけど
どれもみんなきれいだね
この中で誰が一番だなんて
争う事もしないで
バケツの中誇らしげに
しゃんと胸を張っている

それなのに僕ら人間は
どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのにその中で
一番になりたがる?

そうさ 僕らは
世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かさせることだけに
一生懸命になればいい」

こんな、歌詞がいたるところで流れていました。

十年に一度、枯れず、釘を打ち込まれ、大地に根を張り、雄々しい花を咲かせる蘇鉄。

みなさまはそんな蘇鉄の花に何を想うでしょうか?

 

2018年7月12日

軽井沢青松寺別院にて眼蔵会

二泊三日の日程で、長野県軽井沢にあります青松寺別院様において眼蔵会が行われました。

禅の修行道場であります永平寺、その永平寺を開かれた道元禅師さまには『正法眼蔵』という九十六巻(諸説あり)にもおよぶ大変難解な書物があります。

その書物の講義を受ける会です。朝の坐禅から始まり、朝課諷経、坐禅道場での精進料理、坐禅を組みながら講義と受け、日中諷経、坐禅道場での精進料理、講義、晩課諷経、坐禅道場での薬石、講義、、、と

坐禅を何時間もくみ仏法の教えに向き合います。

講師をお勤めくださったのは、古坂龍宏老師です。言葉の上だけでなく、そのお姿やたたずまい全身で語るその仏法の姿に、私をとりまく大自然と同じ命の力が溢れているように感じるのです。

同じ言葉、短すぎる言葉にもかかわらず、その発する人によって全く深みが変わるものがある。それは、どのような職業でも生き方でも、偽りなくその道を歩み続けた人が身につけた言葉だからなのでしょう。

私自身、口先だけの人間、重みのない人間、にならぬようしっかりと道を歩んでいきたい。

そんな想いを新たにした眼蔵会でした。

 

2018年6月6日

早朝坐禅会が行われました。

 

先日、早朝坐禅会がありました。朝の静けさの中、静かに坐りお粥を食べていただきました。

写真は、三人寄れば文殊の知恵で知られる文殊菩薩様です。如来の姿ではなく、僧侶の姿で修行をしているのは珍しいかもしれません。

文殊菩薩様は、聖僧様と呼ばれ、永平寺の僧堂でもおまつりされています。

僧堂とは、朝夕の坐禅修行の場でもあり、坐禅を組み、朝昼の食事をいただく場でもあり、睡眠をとる場所です。その中央に智慧の仏様をいただき、見守ってもらうのです。

龍廣寺での坐禅会が終わったあと、すべてのざふを日干ししている様子です。

2018年5月18日

花祭り

4月8日に高崎市仏教会で花祭りを開催しました。38名もの御稚児さんが集まってくれました。衣装に身を包み保護者の方と一緒に、高商の吹奏楽部の演奏に先導され、さやモールから下横町の向雲寺さんまで歩きました。

御稚児さんたちが健やかに成長できることをご祈念もうしあげます。

 

2018年4月9日

奈良康明先生の言葉

墓地より見える、観音山に沈む夕日と花吹雪です。

この度は、昨年末に亡くなられた奈良康明先生の言葉を紹介します。駒沢大学の総長を務め、晩年まで曹洞宗第一修行道場である永平寺において西堂として、私たちを僧侶を接化し続けた方の言葉です。

「慈しみの心は訓練して育てるものである」

「誰って自分を大切に思う、同じように他者も自分自身を大切に思う。だから自分と同じように他者のことを考え思いやりをもって接しよう」

「さまざまな人と関わる中で腹の立つこともある。実践することの難しさを実感する」

「しかし、自分に言い聞かせて努力するうちに、身についてゆく」

そんな言葉を残されました。人を思い遣るというのは、誰でも知っている当たり前のことです。しかし、それを実践する難しさ。

一生涯努力し、自らに言い聞かせ実践してきた先生の言葉は、これから私たちがどう生きていかなければならないか、考えさせられます。

 

2018年4月3日

龍廣寺もさくらが咲き始めました

つい先日、雪が降ったかと思えば、もう桜の開花がはじまりました。

ふと桜の根本を見れば、新しい芽が一足先に満開

卒業と入学という別れと出会いの季節に咲く花

空を見上げず、そんな私たちを見守るかのように下を向いて咲き、

一週間足らずで、風に吹かれて美しく散るさま

そんなおもむきや儚さに、私たちは知らず知らずに心を寄せているのかもしれません。

 

2018年3月27日

東日本大震災ボランティア托鉢

昨日、群馬県曹洞宗青年会主催による、東日本大震災の追悼法要が、龍廣寺において行われました。その後、高崎駅まで歩き夕方五時まで托鉢をしました。日曜日ということで多くの人にご協力いただきました。みなさまから頂いた浄財は、被災地に責任をもってお届けいたします。

また、群馬県青年会では毎年有志により被災地にてボランティアをしておりますが、ニュースで取り上げられるように、いまだに復興の進まない地域、避難指定が解除されても人口がもどらない、高齢化、仮設住居の問題など多くの方が大変なおもいをされています。

私自身およばずながら、ほんの少しでも一助になればと考えております。この度は多くの方にご協力いただき本当にありがとうございました。

2018年3月12日

雪景色

先日高崎市でも大雪が降りました。普段あまり雪の降ることのない高崎市、そのたびに私が思い出すのは、曹洞宗の本山、永平寺のことです。北陸福井県の山奥雪深いところにある禅の修行道場。

上山当時のことは、目を閉じればいまでも情景が浮かんできます。

早朝の薄暗い時間帯に、山門に向かって薄く雪の積もった石畳の階段を草鞋で登ってゆきます。わらで編まれたその履物は、足の体温で溶けた雪でだんだんと濡れて染み込んできました。山門の前に着くと、高崎あたりのお寺では見たこともないような初めて見るその大きさに圧倒され、廊下を先輩の和尚さん達が「はーい」「はーい」と大きな声を出して全力で行ったり来たり雑巾がけをしている。ピリピリとした張りつめた空気でした。私のこの目の前に今まで見たこともない世界が広がっている。正直に申しますと、あぁーとんでもない場所に来てしまったかもしれないというのが感想でした。

山門に着いてもすぐに永平寺の中に入れてくれないのです。雑巾がけが終わった後のいきなりの静けさ、あの雪国の朝独特の静けさがあたりを支配します。迎えの和尚さんが来るまでそのまま微動だにせずに山門前に立ち続けます。本当に今までの生活をやめてこの修行道場に入るだけの覚悟があるのかどうか、自分の心に問いなおす、自らを見つめ直す、長い長い時間があります。

濡れた草鞋、足の底の方から寒さが襲ってきて、「じーんじーん」としびれるような痛さからはじまりだんだんと手足の感覚がなってくる。まだか、まだか、なんておもい、未知の修行、不安に押しつぶされそうな気持ち、ここで帰ってしまったら師匠や檀信徒のみなさんに面目が立たない。いろんな気持ちが混ざり合う。

ここで帰ってしまう人もいると聞いていました。顔は動かせないので、視線だけで両隣に同じように入山を許されまで立っている人の足元を見て、「のこってる」「のこってる」と安心して、「私も頑張ばなければ」と思う、膝ぐらいまでの感覚がなくなり、腕もかじかんでどこにあるのかわからなくなってきたころ、やっと、ほんとうにやっと先輩の和尚さんが迎えにきました。

かと思えば、そして山門の前に立っていた私たちに、私の時は八人いましたが、その一人ひとりに「なぜ修行しにきたのですか?」と心構えを聞かれるのです。全力で「仏法を学ぶためです」と叫びました。それが終わってやっと永平寺にはいることを許されます。「あぁやっと入れた」と安心したのがそもそもの間違いでした。その後から先輩の和尚さんからの約一週間に及ぶ、これから修行生活を送る基本となる本格的な指導が始まりました。

よくテレビなどで山門の前に立っている永平寺の僧侶の姿が放映されています。しかし、本当にそれだけの覚悟がなければ、耐えられない生活が始まることをこの身で実感しました。

2018年1月30日

禅を聞く会

毎年十一月の終わりころに群馬県曹洞宗布教部主催で「禅を聞く会」という法話の会が開かれております。

昨年は、前橋市のメモリードにおいて、メディア等に数多く出演されている駒沢女子大学の千葉公慈先生に講演をお願いしました。

その冒頭で「便利」と「人間らしさ」についてお話されました。遠くない将来東京~大阪間を七分で移動できるようになり、ロボットはどんどん進化してすでに、高性能なロボットはロボットでしかつくれない時代が今だそうです。人は苦労しなくとも、なんでも楽に、自分の思い通りにできる時代になるだろう、そう話していました。

ただ、それが人間らしさか?とも問題提起されました。最近の小さな子どもたちの絵には、手足が描かれなくなり代わりに頭や目ばかりが大きく描かれるようになってきたそうです。

今の世の中、ゲームやテレビ携帯電話の発展で、情報が溢れ、視覚中心の世の中になってきてしまっているその影響。情報の中で知った気になって本当に大切な心が失われてきているのではないか?と話されていました。

飲み水、トイレ、お風呂と生活に欠かせない水一つとっても、昔は川から汲んできた水、井戸からつるべで汲み、そのうちにポンプで井戸からくみ上げられるようになった。そして今は捻るだけで、汗一つかかずいくらでも出てくる。そのうち、いったいどうなるのか?

水を例にだしましたが、食材でもなんであっても自らの手でしたことがなければ、もの大切にすると教えてもその実感が湧かない、自らするということの大切さ。そして、現代で低年齢層の腰痛や運動機能の低下がニュースになるほどですが、便利になればなるほど、退化してゆく人間の身体。

便利と幸せはイコールではない。これから一人一人が人間らしさ、とは何か考えていかなければいけない世の中になるのではないのではないでしょうか?

2018年1月20日

明けましておめでとうございます。

明けましておめでとうございます。副住職としてホームページを初めておよそ一年が経ちました。いつも見ていただいて本当にありがとうございます。毎年恒例の除夜の鐘では、冷え込むなかおよそ100名の方にお越しいただきました。まことにありがとうございます。

梵鐘を撞く順番をお待ちいただいている最中、お互いに新年の挨拶を交わされている方たちや鐘撞堂裏の火に、お守りやだるまさんやおふだをくべて「一年間ありがとう」と手を合わせている方たちをみると、私自身も感謝を忘れないようにしていきたいと思わされました。みなさまはどのような気持ちを胸にこの一年に臨まれるでしょうか?

2019年は平成から新たな年号に変わる年となりました。皆様にとって、本年が健やかな年となりますようご祈念申し上げます。

2018年1月1日