雪景色

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先日高崎市でも大雪が降りました。普段あまり雪の降ることのない高崎市、そのたびに私が思い出すのは、曹洞宗の本山、永平寺のことです。北陸福井県の山奥雪深いところにある禅の修行道場。

上山当時のことは、目を閉じればいまでも情景が浮かんできます。

早朝の薄暗い時間帯に、山門に向かって薄く雪の積もった石畳の階段を草鞋で登ってゆきます。わらで編まれたその履物は、足の体温で溶けた雪でだんだんと濡れて染み込んできました。山門の前に着くと、高崎あたりのお寺では見たこともないような初めて見るその大きさに圧倒され、廊下を先輩の和尚さん達が「はーい」「はーい」と大きな声を出して全力で行ったり来たり雑巾がけをしている。ピリピリとした張りつめた空気でした。私のこの目の前に今まで見たこともない世界が広がっている。正直に申しますと、あぁーとんでもない場所に来てしまったかもしれないというのが感想でした。

山門に着いてもすぐに永平寺の中に入れてくれないのです。雑巾がけが終わった後のいきなりの静けさ、あの雪国の朝独特の静けさがあたりを支配します。迎えの和尚さんが来るまでそのまま微動だにせずに山門前に立ち続けます。本当に今までの生活をやめてこの修行道場に入るだけの覚悟があるのかどうか、自分の心に問いなおす、自らを見つめ直す、長い長い時間があります。

濡れた草鞋、足の底の方から寒さが襲ってきて、「じーんじーん」としびれるような痛さからはじまりだんだんと手足の感覚がなってくる。まだか、まだか、なんておもい、未知の修行、不安に押しつぶされそうな気持ち、ここで帰ってしまったら師匠や檀信徒のみなさんに面目が立たない。いろんな気持ちが混ざり合う。

ここで帰ってしまう人もいると聞いていました。顔は動かせないので、視線だけで両隣に同じように入山を許されまで立っている人の足元を見て、「のこってる」「のこってる」と安心して、「私も頑張ばなければ」と思う、膝ぐらいまでの感覚がなくなり、腕もかじかんでどこにあるのかわからなくなってきたころ、やっと、ほんとうにやっと先輩の和尚さんが迎えにきました。

かと思えば、そして山門の前に立っていた私たちに、私の時は八人いましたが、その一人ひとりに「なぜ修行しにきたのですか?」と心構えを聞かれるのです。全力で「仏法を学ぶためです」と叫びました。それが終わってやっと永平寺にはいることを許されます。「あぁやっと入れた」と安心したのがそもそもの間違いでした。その後から先輩の和尚さんからの約一週間に及ぶ、これから修行生活を送る基本となる本格的な指導が始まりました。

よくテレビなどで山門の前に立っている永平寺の僧侶の姿が放映されています。しかし、本当にそれだけの覚悟がなければ、耐えられない生活が始まることをこの身で実感しました。

2018年1月30日