また、YouTubeにてお話をさせてもらいました。
この度は永平寺での修行中のことについてです。廊下においてある「ゴミ箱」に教えてもらったことについてお話させてもらいました。
また、YouTubeにてお話をさせてもらいました。
この度は永平寺での修行中のことについてです。廊下においてある「ゴミ箱」に教えてもらったことについてお話させてもらいました。
また、曹洞宗宗務庁のYouTubeにて法話を配信させていただくことになりました。テーマは仏教の「同事」の教えについてです。「同事」とは自他の垣根を越えて、心を重ねて共に歩むことです。
小説家の五木寛之先生の言葉を引用します。
自分の痛みや苦しみや悩みという物は、誰にもわかってもらえないんだ。これは自分一人でしか抱えていくしかないものなんだ。家族にも肉親にも、看護師さんにも、医者にもわからない。こは自分一人の痛みであり、苦しみなんだと感じて、孤立したときに、その悩みとか苦しみは2倍にも3倍にもなるんだ。
しかし、自分の心の中の氷のような孤独感や痛みを、体温を持って受けとめてくれている人がここにいる。この人は何もいわないし激励もしない。だけど、本当になんとも言えない表情で深いため息をつき傍にいてくれると、その人に、自分の感情が乗り移って、窓の隙間からそちらに流れだすように伝わっていくのではないか。
このように五木先生はおっしゃっていました。自分一人で苦しみを背負ってしまうと苦しみは大きくなるものです。そのような時に、同じように悲しみ、涙し、そばにいてくれることは大変な助けになるものです。その事を少しでもわかり易くとお話しにさせていただきました。
あけましておめでとうございます。
皆様は大河ドラマはご覧になりますか?本年から大河ドラマ『どうする家康』が始まります。
実はこの龍廣寺を建立したのは、徳川四天王の1人である井伊直政公です。そういった御縁があり、NHK前橋さんが「スタンプラリーに協力ください」とお声がけくださいました。他に群馬県内11箇、所徳川家と縁のある場所に設置されています。
今回の大河ドラマの井伊直政公の役は板垣李光人さんです。その前の大河ドラマでは菅田将暉さんが井伊直政の役でした。もしかするとおよそ、400年前に龍廣寺を建てた本人も、とんでもなくイケメンではだったのではないか?そんな想像をしている次第です。
お立ち寄りの際は、是非パンフレットもお持ちください。今回の企画についての詳しい内容はNHK前橋のホームペジに記載があります。
群馬パラオ会の方たちに教えていただいたことを、法話としてYouTubeで配信させてもらっています。
なれない事ゆえ、緊張によって瞬きが多く画面は見ずらいかもしれません。
もしよろしければ、音声だけでもご視聴ください。
バスのなかで 坂村真民
この地球は
一万年後
どうなるかわからない
いや明日
どうなるかわからない
そのような思いで
こみあうバスに乗っていると
一人の少女が
きれいな花を
自分よりも大事そうに
高々とさしあげて
乗り込んできた
その時
わたしは思った
ああこれでよいのだ
たとい明日この地球がどうなろうと
このような愛こそ
人の世の美しさなのだ
たとえ核戦争で
この地球が破壊されようと
そのぎりぎりの時まで
こうした愛を
失わずにゆこうと
涙ぐましいまで
清められるものを感じた
いい匂いを放つ
まっ白い花であった
人を想う心の美しさを感じずにはいられない詩です。その花に一体どんな心が込められているのか。誰かの誕生日か、入院している親へか、好きな人へか、一人の少女の心を思わず考えさせられてしまう、そんな詩です。その姿を見つけた坂村真民さんもまた、思いやりに溢れた人なのだと想像してしまいました。
人を想う心について、「墨を一滴垂らすようなもの」と言ったのは、確か、青山俊董老師だったかと思います。半紙に墨を一滴垂らすと、じわっと少し広がります。思い遣りとはそういうものなんだそうです。相手を想う言葉や笑顔、行動は、バスの女の子の様に、周りの人を少し優しい気持ちにしてくれるものです。
この詩をよむと、とても大切なことを教えてくれる気がします。私たちは、今いるこの場所で、誰かを想うことが出来ます。隣の人に微笑む事もできます。皆が今いるその場所で、「墨を一滴たらす」ことができたなら、一滴一滴は小さなものでも、そのにじみがだんだんと広がってゆく。繋がり合って暖かい社会になっていくはずなのです。
「ただまさに日日の行持、その報謝の正道なるべし。(『修証義』)」
もう一つ、お経の一節を紹介いたします。私たちは「自然」「親」「草木」「友人」などなど、あげれば切りが無いほど、何かのお陰で生きています。生かされた命です。だからこそ、日々の何気ない生活をその恩返しだと思って大切に生きましょうという教えです。食事を丁寧にする。挨拶を丁寧にする。言葉使いを丁寧にする。修行というと何か特別なことをする気がしてしまいますが、「今、目の前のことを丁寧にする」ことが修行です。言うのは簡単で行うのは難しいですが、たったそれだけが禅の修行の根幹です。
次回 六月八日 午後三時より
誰もが知る芸能人、一昔前のお昼の顔といえば、「わらっていいとも」の司会で知られるタモリさです。
この度はタモリさんの名言を紹介します。
「まぁ私も結構活躍しいるみたいなんですけれども、宇宙から見たらもう
どうでもいいですね」
「人間って『自分がいかに下らない人間か』ということを思い知ることで、
スーと楽になれるもんじゃないかな」
「好きな言葉は『適当』」
そうタモリさんはおっしゃったことがあるそうです。タモリさんは他の番組にもでていますので、一年のうちに休日など数えるほどしかない。そんな生活を30年以上。どれほどの苦労があったのか、想像することもできません。だからこそ、そこに込められた奥深さを想像してしますのです。
私たちは、自分のちっぽけさや無力さ無意味さ、命の儚さを、心のどこかで、知っている、でもやっぱり眼を背けたい。さらに仏教的に言えば、「この私」と言う意識がいつどこから来て、どこから始まって、いつ終わるか何もわからないわけですから不安なのです。
肩書きや、人気、学歴、お金、若さ、そういったもので人と比べ、認めてほしい、人の上に立ちたい。その気持ちがどこからくるかって言えば、「安心したいから」なんだそうです。だからこそ、肩書きや、学歴、お金、若さなどに固執して私というものを確率しようと奮闘する。競争の中で心は常に落ち着かず、身体は強張る。
タモリさんは宇宙から見ればといいましたが、「自分がいかにくだらない人間か」と認めてしまえばいい、そうすれば心が楽になるからと伝えているのです。
タモリさんにはこんなエピソードもあります。
遊びの場で「仕事じゃねえんだぞ!真剣にやれ」と怒ったという話や、仕事の場で「やる気のあるものは去れ!」と言ったといエピソードです。
遊びだから適当でいい、仕事だからやってやる。その気持ちの陰にある、「私が、俺が」という気持ちが強くなると、自然体から離れてしまう。「やってやる」という気持ちが強すぎれば、身体や心が緊張し本来の力がだせないなど、身体や心に無理がでるものです。無理をすれば、やることも長続きもしない。30年以上「笑っていいとも」の司会をしていたタモリさんの出した答え、『適当に』。
それは決して「だらだら」、「どうなっても」という意味ではなく、心も身体も丁度、自然体にピントを合わせるという意味でしょう。私たちが人生を楽しく生きる大切なヒントです。
最後に実はタモリさんは赤塚不二夫さんに見いだされ芸能界にはいり、赤塚さんを父のように、兄のように慕っていたそうです。その為、仏教に非常に精通されています。最初に上げたタモリさんの言葉、仏教用語などは使われていませんが、仏教の根本に生き方が説かれています。
群馬県の曹洞宗布教部のテレホン法話がYouTubeでもご覧になれることになれました。
私は十一月の上旬を担当です。せっかくですので、今回そのリンクを添付させていただきます。
坐禅についてのお話です。かなりゆっくりとしたペースで話しています。もうすこし詳しくお話できれば良かったのですが、三分という非常に短い時間ですので、ご了承ください。
仏教詩人として名が知られる坂村真民さんの詩をご紹介します。
「海の中の石たちは
みなまるくなろうとして
あんなに毎日もまれているのだ
わたしはそういう石の心が
いとしくて
まるい石を拾うては
手のひらであたため
ほめてやる」
もまれて、丸くなってゆく。坂村真民さんは、「病気よし、失恋よし、不幸よし、失敗もよし、泣きながらパンを食うもよし、大事なことは、そのことを通して、自分を人間らしくしてゆくことだ。人の痛みのわかる人が本当の人間なのだ」とも言っています。
仏教にとても詳しいであろう中島みゆきさんも、『銀の龍の背にのって』という曲で「柔らかな皮膚しかない理由は人が人の傷みを聴くためだ」と歌っています。
若い時ほど、認められたいという気持ちが強く、とがって人にぶつかったり、人を非難したり、負けてたまるかという気概で生きています。でもお互いぶつかりあってその角が取れてゆく。病気や大切な人との別れと経験すれば、自分の命、健康に対する驕りという角も取れていく。人生の海もまた、もまれれば、もまれるほど丸く丸くなってゆく。丸くなって誰も傷つけなくなってゆく。でもその姿は美しいなと思うのです。
私は朝日を見るのが好きなのですが、昼間の様に光が強くなく、意外と小さな太陽のまんまるの様子がよく見えるのです。ただただ美しい。人との出会いもそう、こんな美しいな生き方があるのかと思わされることがあります。
仏教では、円は悟りの境涯です。「一円相」というただ、一つの丸が書いてあるだけの掛け軸も多くあります。心身が欠けること無く満たされているのです。
『酸いも甘いもかみ分ける』という言葉もありますが、人生経験をつみ、たおやかで芯のある人間になってゆくのです。
もし、一円相の掛け軸をご覧になることがあったら、自分はどのくらい丸くなったとうかと、是非思い出してみてださい。
『それをお金で買いますか?』
数年前にブームになった『これからの正義の話をしよう』の著者マイケル・サンデルが執筆された本です。
この書籍の中では、市場経済の価値観が人の「出産・育児・教育・健康・環境問題」などに流入してくると、道徳や善の腐敗、さらには差別に繋がってゆくことが、様々な事例から述べられています。
ほんの一例ですを紹介します。結婚式のスピーチ代行サービスことです。
新郎が親友にお願いし結婚式のスピーチをしてもらった。その話の素晴しさに式中も涙が流れた。しかし、後から親友がそのスピーチを代行サービスに一万五千円ほどで作成してもらったものだったと知ったらどうか?
ほとんどの人がその事実を知る前よりもスピーチの価値は落ちたと感じる。本物のスピーチには及ばないと思ってしまう。金銭で価格を決めて、友情の一部をお金で買った結果です。
マイケル・サンデルこういった事を、道徳心や善の堕落と言います。
日本でも身近なところでは、「友人代行」「行列代行」「宿題代行」などここ数年の間に様々なサービスができました。当然悪いことばかりではありませんが、欠点も知らねばなりません。
仏教ではよく「欲」と説きます。しかし、マイケル・サンデルは「欲」ではない、「市場経済の価値観」人の生活の根幹部分に入ってきたせいだと言うのです。私見ですが、「安さ、便利さ、手軽さ」などの市場の価値観により価格をつけて生活することが当たり前になりすぎ、それが加速してゆくなかで、それ以外の価値観で物事を見られなくなっていったのではないでしょうか?
それが行きすぎれば人間をも人種・能力・年齢により価値を計る社会になる、同じ命が差別されるようになるとマイケル・サンデルは述べていました。そういったことに起因する痛ましい事件は日本でも起きています。
私たちは知らず知らずのうちに「心」「道徳」「善」「命」が絡むところにも価格をつけて生活している、その危険性というものも、しっかりと知らなければならない。
そう思いまして今回HPにておすすめの書籍として紹介させていただきました。
この度は、先日遷化されました福島県福島市 長楽寺 住職 中野重孝師(曹洞宗特派布教師)の御法話を紹介させていただきます。私が師より薫陶を受けていた期間は少しだけでしたが、生き様で話す老師という印象でした。
震災や復興、病気など、余人では想像しえないものを抱いて仏道を歩んできたことを考えると、どのような想いでこの法話(動画)に臨んだのか、、、胸に突き刺さるものがあります。
中野老師が受け持った講義の一受講生ではありましたが、最後の教えとして受け取らねば、そのような想いから、この度HPにも添付させて頂きました。
演題は「今、いのちあるはありがたし」。