バスのなかで 坂村真民
この地球は
一万年後
どうなるかわからない
いや明日
どうなるかわからない
そのような思いで
こみあうバスに乗っていると
一人の少女が
きれいな花を
自分よりも大事そうに
高々とさしあげて
乗り込んできた
その時
わたしは思った
ああこれでよいのだ
たとい明日この地球がどうなろうと
このような愛こそ
人の世の美しさなのだ
たとえ核戦争で
この地球が破壊されようと
そのぎりぎりの時まで
こうした愛を
失わずにゆこうと
涙ぐましいまで
清められるものを感じた
いい匂いを放つ
まっ白い花であった
人を想う心の美しさを感じずにはいられない詩です。その花に一体どんな心が込められているのか。誰かの誕生日か、入院している親へか、好きな人へか、一人の少女の心を思わず考えさせられてしまう、そんな詩です。その姿を見つけた坂村真民さんもまた、思いやりに溢れた人なのだと想像してしまいました。
人を想う心について、「墨を一滴垂らすようなもの」と言ったのは、確か、青山俊董老師だったかと思います。半紙に墨を一滴垂らすと、じわっと少し広がります。思い遣りとはそういうものなんだそうです。相手を想う言葉や笑顔、行動は、バスの女の子の様に、周りの人を少し優しい気持ちにしてくれるものです。
この詩をよむと、とても大切なことを教えてくれる気がします。私たちは、今いるこの場所で、誰かを想うことが出来ます。隣の人に微笑む事もできます。皆が今いるその場所で、「墨を一滴たらす」ことができたなら、一滴一滴は小さなものでも、そのにじみがだんだんと広がってゆく。繋がり合って暖かい社会になっていくはずなのです。
「ただまさに日日の行持、その報謝の正道なるべし。(『修証義』)」
もう一つ、お経の一節を紹介いたします。私たちは「自然」「親」「草木」「友人」などなど、あげれば切りが無いほど、何かのお陰で生きています。生かされた命です。だからこそ、日々の何気ない生活をその恩返しだと思って大切に生きましょうという教えです。食事を丁寧にする。挨拶を丁寧にする。言葉使いを丁寧にする。修行というと何か特別なことをする気がしてしまいますが、「今、目の前のことを丁寧にする」ことが修行です。言うのは簡単で行うのは難しいですが、たったそれだけが禅の修行の根幹です。
次回 六月八日 午後三時より