龍廣寺もさくらが咲き始めました

つい先日、雪が降ったかと思えば、もう桜の開花がはじまりました。

ふと桜の根本を見れば、新しい芽が一足先に満開

卒業と入学という別れと出会いの季節に咲く花

空を見上げず、そんな私たちを見守るかのように下を向いて咲き、

一週間足らずで、風に吹かれて美しく散るさま

そんなおもむきや儚さに、私たちは知らず知らずに心を寄せているのかもしれません。

 

2018年3月27日

東日本大震災ボランティア托鉢

昨日、群馬県曹洞宗青年会主催による、東日本大震災の追悼法要が、龍廣寺において行われました。その後、高崎駅まで歩き夕方五時まで托鉢をしました。日曜日ということで多くの人にご協力いただきました。みなさまから頂いた浄財は、被災地に責任をもってお届けいたします。

また、群馬県青年会では毎年有志により被災地にてボランティアをしておりますが、ニュースで取り上げられるように、いまだに復興の進まない地域、避難指定が解除されても人口がもどらない、高齢化、仮設住居の問題など多くの方が大変なおもいをされています。

私自身およばずながら、ほんの少しでも一助になればと考えております。この度は多くの方にご協力いただき本当にありがとうございました。

2018年3月12日

雪景色

先日高崎市でも大雪が降りました。普段あまり雪の降ることのない高崎市、そのたびに私が思い出すのは、曹洞宗の本山、永平寺のことです。北陸福井県の山奥雪深いところにある禅の修行道場。

上山当時のことは、目を閉じればいまでも情景が浮かんできます。

早朝の薄暗い時間帯に、山門に向かって薄く雪の積もった石畳の階段を草鞋で登ってゆきます。わらで編まれたその履物は、足の体温で溶けた雪でだんだんと濡れて染み込んできました。山門の前に着くと、高崎あたりのお寺では見たこともないような初めて見るその大きさに圧倒され、廊下を先輩の和尚さん達が「はーい」「はーい」と大きな声を出して全力で行ったり来たり雑巾がけをしている。ピリピリとした張りつめた空気でした。私のこの目の前に今まで見たこともない世界が広がっている。正直に申しますと、あぁーとんでもない場所に来てしまったかもしれないというのが感想でした。

山門に着いてもすぐに永平寺の中に入れてくれないのです。雑巾がけが終わった後のいきなりの静けさ、あの雪国の朝独特の静けさがあたりを支配します。迎えの和尚さんが来るまでそのまま微動だにせずに山門前に立ち続けます。本当に今までの生活をやめてこの修行道場に入るだけの覚悟があるのかどうか、自分の心に問いなおす、自らを見つめ直す、長い長い時間があります。

濡れた草鞋、足の底の方から寒さが襲ってきて、「じーんじーん」としびれるような痛さからはじまりだんだんと手足の感覚がなってくる。まだか、まだか、なんておもい、未知の修行、不安に押しつぶされそうな気持ち、ここで帰ってしまったら師匠や檀信徒のみなさんに面目が立たない。いろんな気持ちが混ざり合う。

ここで帰ってしまう人もいると聞いていました。顔は動かせないので、視線だけで両隣に同じように入山を許されまで立っている人の足元を見て、「のこってる」「のこってる」と安心して、「私も頑張ばなければ」と思う、膝ぐらいまでの感覚がなくなり、腕もかじかんでどこにあるのかわからなくなってきたころ、やっと、ほんとうにやっと先輩の和尚さんが迎えにきました。

かと思えば、そして山門の前に立っていた私たちに、私の時は八人いましたが、その一人ひとりに「なぜ修行しにきたのですか?」と心構えを聞かれるのです。全力で「仏法を学ぶためです」と叫びました。それが終わってやっと永平寺にはいることを許されます。「あぁやっと入れた」と安心したのがそもそもの間違いでした。その後から先輩の和尚さんからの約一週間に及ぶ、これから修行生活を送る基本となる本格的な指導が始まりました。

よくテレビなどで山門の前に立っている永平寺の僧侶の姿が放映されています。しかし、本当にそれだけの覚悟がなければ、耐えられない生活が始まることをこの身で実感しました。

2018年1月30日

禅を聞く会

毎年十一月の終わりころに群馬県曹洞宗布教部主催で「禅を聞く会」という法話の会が開かれております。

昨年は、前橋市のメモリードにおいて、メディア等に数多く出演されている駒沢女子大学の千葉公慈先生に講演をお願いしました。

その冒頭で「便利」と「人間らしさ」についてお話されました。遠くない将来東京~大阪間を七分で移動できるようになり、ロボットはどんどん進化してすでに、高性能なロボットはロボットでしかつくれない時代が今だそうです。人は苦労しなくとも、なんでも楽に、自分の思い通りにできる時代になるだろう、そう話していました。

ただ、それが人間らしさか?とも問題提起されました。最近の小さな子どもたちの絵には、手足が描かれなくなり代わりに頭や目ばかりが大きく描かれるようになってきたそうです。

今の世の中、ゲームやテレビ携帯電話の発展で、情報が溢れ、視覚中心の世の中になってきてしまっているその影響。情報の中で知った気になって本当に大切な心が失われてきているのではないか?と話されていました。

飲み水、トイレ、お風呂と生活に欠かせない水一つとっても、昔は川から汲んできた水、井戸からつるべで汲み、そのうちにポンプで井戸からくみ上げられるようになった。そして今は捻るだけで、汗一つかかずいくらでも出てくる。そのうち、いったいどうなるのか?

水を例にだしましたが、食材でもなんであっても自らの手でしたことがなければ、もの大切にすると教えてもその実感が湧かない、自らするということの大切さ。そして、現代で低年齢層の腰痛や運動機能の低下がニュースになるほどですが、便利になればなるほど、退化してゆく人間の身体。

便利と幸せはイコールではない。これから一人一人が人間らしさ、とは何か考えていかなければいけない世の中になるのではないのではないでしょうか?

2018年1月20日

明けましておめでとうございます。

明けましておめでとうございます。副住職としてホームページを初めておよそ一年が経ちました。いつも見ていただいて本当にありがとうございます。毎年恒例の除夜の鐘では、冷え込むなかおよそ100名の方にお越しいただきました。まことにありがとうございます。

梵鐘を撞く順番をお待ちいただいている最中、お互いに新年の挨拶を交わされている方たちや鐘撞堂裏の火に、お守りやだるまさんやおふだをくべて「一年間ありがとう」と手を合わせている方たちをみると、私自身も感謝を忘れないようにしていきたいと思わされました。みなさまはどのような気持ちを胸にこの一年に臨まれるでしょうか?

2019年は平成から新たな年号に変わる年となりました。皆様にとって、本年が健やかな年となりますようご祈念申し上げます。

2018年1月1日

紅葉

龍廣寺の紅葉もそろそろ終わり、冬の足音がすぐそこまで聞こえる時期になりました。

江戸時代の禅僧、良寛和尚さんのこんな句があります。

「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」

私たちの眼を楽しませてくれるもみじが、散り、風にふかれ、ヒラヒラと舞ってゆくその様。

晩年に良寛和尚さんが、自身の命に散りゆくもみじを重ねた句です。

泣いて、笑って、苦しんで、楽しくて、うれしくて、悲しくて、散ってゆく命。

風に舞うもみじのように決して思い通りにならない人生。

でも、たくさんの人がその美しさに惹きこまれ

散ってさえも、石畳を彩るもみじの赤に、おもわず眼を落す。

数百年たってなお、良寛和尚さんの言葉が、私たちを惹きつけるのはなぜか。

私たちの中にも、たとへその人がもういなくとも忘れられない言葉や想いがあるのではないでしょうか?

2017年11月27日

夜坐

ある会社の方たちが、研修ということで夜坐禅に来てくざさいました。

曹洞宗の本山である、福井県の山奥にある永平寺。禅の修行道場として鎌倉時代に開かれました。

私も数年前までそこで修行させてもらっていましたが、今でも朝晩に坐禅をしています。

時間になおせば、朝晩それぞれ一時間半くらい。

朝の坐禅を暁天坐禅といい、薄暗い坐禅道場の中、日の昇る前から、朝日が顔を見せるまで坐ります。

夜の坐禅を夜坐といい、就寝する直前まで坐り続けます。

両の膝とお尻の三点で体を支え、坐蒲に腰を下ろすころで起き上がった骨盤に頭のてっぺんからまっすぐに重心をしたに下ろしてあげる。畳に根を張るかのように坐る。

人の本来の呼吸、人が寝ているときのような、深い深い腹式呼吸に戻してあげる。

心を心のままに、頭に浮かんできたものを自分の我でこねくり回し落ち込んだりイライラしたりしない。浮かぶに任せそのままに。

 

なんの生産性のもない時間の無駄な使い方という方もあるでしょう。なんて贅沢な時間の使い方だという方もあるでしょう。

でも私は自分の身心が生きていることに向き合うことは何よりも大切だと思うのです。

頼まれなくても動いてくれている心臓があって、さまざまな音が聞こえてきて、さまざまな香りに囲まれいることに気づく。呼吸にさえ気づいていない私たち。

普段私たちはそんなことさえも気づかず忘れていませんか?

 

修行中、正直坐っていると、足はものすごい痛いし、雪深いところですので凍えるように寒い、睡眠不足で眠い、心の葛藤、ただ坐っていること、何もしないということがここまで辛いのかと思いました(笑)

でもそれも含めて私たちに大切なことを教えてくれているのだと思うのです。

 

2017年11月8日

供養

供養、供養、と言葉では聞くけれどどんな意味があるのか?

「養う」というのは、亡き方の冥福を祈り安らか眠れるよう、その想いを「供える」から供養でという字を書きます。伝統的にはそう解釈されてきましたが、 私はそれだけではないと思うのです。インドのベンガル地方に残る伝統的な仏教では、葬儀のさい、亡き方が残された私たちにしてくれた善きことを一つ一つ枕元でみんなで数えてゆく、そんな風習がのこっています。なぜその場で、亡き方のご縁に繋がる人たちが集まりそんなことをするかといえば、亡き方が私たちの心、魂の残してくれたことを確認して、今度はその善い行いを一つ一つ自分のこととして、これからの生活の中で実践しともに生きるということからです。それこそ生と死を超えて「供養」読んで字通りともに養しないあうって生きてゆくということなのです。この「共」と「供」ほとんど同じ意味がありますけれど、一番の違いは人偏です。人という字が付くところです。お線香をあげる、法要をすることもそうですが、亡き方が悲しむような生き方しないで元気でやってるよって言えることが一番の供養なのではないでしょうか。

2017年11月8日

9/24にお施食会が行われました

お施食会にちなみまして、静岡県より龍潭寺前ご住職に来山していただき、井伊直虎公と直政公のお話をしていただきました。大河ドラマで柴咲コウさん演じる次郎法師が育ったのが龍潭寺です。そして、菅田将暉さん演じる直政公が徳川四天王となり関東へ出たのち建立した寺が龍廣寺です。そのような繋がりから、この度の講演をお願いしたところ快く引き受けていただきました。どのような社会背景があったのか、大河ドラマではわからない部分まで丁寧にお話いただきました。

2017年10月1日

お盆

夏の暑さもひと段落した今日この頃、皆さまいかがお過ごしでしょうか?初盆を迎える方に準備してもらっている提灯についてお話させていただきます。

13日、14日の「迎えお盆」お墓参りにいき故人を迎え、家の仏壇に火を灯す。15日、16日の「送り盆」では、お寺に故人を送りにゆく。お寺にとってはお迎えすることになるので、提灯に火を灯すのです。

国民的な休日、故人の縁に繋がる方が集まって想いを馳せる。「やさしさ」や「厳しさ」等、故人の好きだったものでも食べながらみんなで話をする場であってほしいと思います。その受け継いだものは、自分自身の命の重みでもあり、目には見えないですし学校でも教えてはくれないが、人を思い遣るというとても大切なことを私たちに教えてくれているのではないでしょうか?

2017年8月31日