副住職がつれづれに時節折々のさまをお伝えします。
日々の綴り
日々の綴り
坐禅
最近では、仏教や禅ブームとも言われ、メディア等でもよく取り上げられるようになりました。その火付け役ともなったのが、アップルの設立者の一人であり、映画「トイ・ストーリー」や「ファインディング・ニモ」を世に生み出したスティーブ・ジョブズではないでしょうか? マインドフルネスや瞑想に熱心だったといわれていますが、実は彼が師事したのは新潟県出身の曹洞宗の僧侶でした。そのもとで坐禅を学び続けたのです。
坐禅というと、どのような印象をおもちでしょうか?「背筋を精一杯伸ばし厳しい修行で精神を鍛えるものだ」、「悟りを開くものだ」と考えている方が多いように思います。
けれどそれは少し違います。坐禅とは「何かの為にする」ことを辞めた姿です。例えるならば、今まで背負って歩いてきた荷物を、肩からおろして一休みするようなものです。
私たちは、物心つく前から人と比べ、どれだけ勉強ができるか、どれだけ良い人か、どれだけ人の役にたてているか、他人と比べ続け価値観やアイデンティティの確立のために奔走しています。少し前のNHKのキラーストレスの番組でもいわれていましたが、そのためにいつも心が戦闘状態にある。心が疲弊してしまう。
すると不思議なもので、姿勢が前のめりになり、肩が凝り、視野が狭く、呼吸も早く浅くなっていた。どれだけ奥歯をかみしめていたのか。気付かないうちに心だけでなく体のバランスまでも崩れていってしまう。
二五〇〇年以上も昔から、一番人間の身体が安定する姿勢と言われてきた形が坐禅です。身体も心も疲弊し、戦闘状態にあるときは気付きませんが、世の中のしがらみをいったん脇において、身体を調え、呼吸を調え、心を調えて坐る。すると私たちの身体が、どんな時であっても自然と呼吸をし、その場の香りを感じ、まわりの音を耳にしていたことに気付くのです。
日々の忙しさの中で見失った自分を原点に戻し、もう一度大切なことを見つめて生きてゆく。今、坐禅がこれだけの注目を集めているのは、激動のストレス社会と言われる時代だからこそではないでしょうか?
「魂のゆくえ」
「人が亡くなると、魂はその人が愛したモノのところへゆく」
とある講義での、青森県下北半島にある恐山院代南直哉老師の言葉、イタコで有名な恐山の院代の言葉が私の耳にいつまでも残っています。
その後、南老師は「だから私たちは、亡くなった人のことを思い出すんだ。思い出したくなくたって、思い出していしますのはそのせいだ」と、言ったのです。
私たちは、大切な方が亡くなってしばらくたっても、食事の最中、「あぁこれ好きだったな」「これは嫌いだったな」と思い出したり、箪笥や手紙の整理をしている最中、思い出が溢れてきたりと、ふと瞬間に何故かいろいろなことを思い出すことがあるのではないでしょうか?
魂、そんな不確かなもの、眼で見たこともないもの信じないという方も多いことでしょう。しかし、大和魂といえば、日本人として生きる意味と価値です。武士の魂といえば、サムライとして生きる意味と価値です。その魂から溢れでたものが私たちの生き様です。魂とは、不思議なことに昔からこの自身の命の意味や価値を表すものでもありました。
こんなことないでしょうか?周りの人に、日常の何気ない仕草や口調、食事のとり方など、さらには後ろ姿まで、
「そうゆうころ亡くなったお父さんに似てきたね」
「だんだんおかあさんにそっくりになってきちゃて」
なんて言われたこともあるのではないでしょうか?私たちの心、人や家の中、さまざまな場所に亡き方の姿は見えなくても、その生き様が染み込んでいて、きっとそれが亡き方の魂のゆくえなんだと、そう私は思うのです。




