日々の綴り

このエントリーをはてなブックマークに追加

副住職がつれづれに時節折々のさまをお伝えします。

日々の綴り

今を生きる

YouTubeにてお話を公開させていただきました。

題名は「今を生きる」です。〈過去の出来事に感情を振り回されたり〉、〈未来の出来事に不安を感じ、目の前のことが手に着かなかったり〉と、今目の前のことを生きるのってとても難しいことです。

けれども今この一瞬の出来事の積み重ねが、人生です。そんな部分を日常の一コマを切り取って、仏教のことをお話させていただきました。

青山俊董老師の講演会を聞いて

七月に高崎市のシティーギャラリーコアホールにで、曹洞宗寺族会六十周年記念講演が開催されました。寺族会とは寺院の奥さんの会です。講師は、曹洞宗の愛知専門尼僧堂の堂頭である青山俊董老師をお招きしました。尼僧堂の堂頭として四十年以上、曹洞宗の尼僧(女性の僧侶)を指導され続けた方です。指導を受けた僧侶は何百人にもわたり、青山老師の薫陶を受ける為に世界中から愛知専門尼僧堂には人が集まり続けています。

そんな青山老師の講演で印象に残ったのは「命の方向づけ」という言葉でした。青山老師は「私は利他行という言葉があまり好きではないんですよ。天地一杯に生かされているこの命への恩返し、その命に相応しい生き方をしてゆく。利他行というのは、命の方向づけのことなのですよ」と言いました。

利他行というのは、仏教用語で他人に良い事をしましょうという言葉です。でも「良い事」というと何か特別な事、感謝されるような事などを思い浮かべてしまいます。けれど青山老師の教えからは、日常の中友人や家族と話している言葉に心を込めること、トイレを丁寧に使うことなど、一つ一つが実は利他行であることに気づかされます。日々の生活の中に仏教があることを改めて教えていただいた出来事でした。

人の心の中に地獄あり

江戸時代に、白隠禅師という有名な禅僧がおりました。 ある日、一人の武士が禅師のもとを訪ねてきます。そして、「禅師様、 地獄・極楽は、一体どこにございますか」と質問をします。武士は、 有名な禅師と聞いているが、力量はいかほどなのかと、試しに来たのでした。

すると、

「地獄・極楽のあり場所を心配するなんて、お前は へなちょこ武士じゃのう」

と、暴言を吐く禅師。その言葉にムッとし て武士は

「いかに高僧とて、こうまで愚弄するとは、許せない」

と、 刀に手をかけ抜刀します。人間欠点を突かれると逆上するものです。 禅師は、ひょいひょいと刀をかわし、逃げながら、なおも武士をから かうのです。武士は、満身怒りで一杯になり、刀 満身怒りで一杯になり、刀を大きく振り回して 切りつける。それをさっとかわして禅師はこういったのです。

「それ、そこが地獄じゃ」

と。ハッと気づく武士。彼は、へとへととその場に座り込み、肩で息を しながら、武士は禅師にわびたのです。

「老僧、御無礼の段、平にお許しを・・・・」

白隠禅師は、すかさず

「それ、そこが極楽じゃ」

と。人間は、生まれながらにして「貪る」「怒る」「愚痴る」の毒(癖) を持っています。

「貪り」の根源は、「無性に嗜好を求める」心であり、 「怒り」は、「嫌悪に対して拒否する」心であり、「愚痴る」は、「何 事にも無知で無関心」 の心から生じるのです。好きな物はどこまでも貪り、嫌いなもの に対して拒否し怒り、自分に関係のない事はどこまでも無関心を貫く、 このように毒を持っているのが生身の人間です。その毒素によって心が病み、自信を失い病気になる事に気付くことが必要でしょう。地獄・極楽は、私たちの心の中にあることを、この話は教えています。心の持ち方いかんによって、行為のいかんによって地獄にも極楽にもなる事を、禅師は武士に説いて聞かせたのでした。

 

 

 

「杓底一残水 汲流千億人」

曹洞宗の修行道場である永平寺のお話です。永平寺の参道正面入り口に二本の石柱が建っています。そこには、

「杓底一残水(しゃくていのいちざんすい)」

「汲流(ながれをくむ)千億人(せんおくのひと)」

と刻まれています。

永平寺は福井の山々に囲まれ大変水の豊かなところに建てられています。冬には、建物が埋まるほどの大雪が降り積もり、桜の散るころまで雪解け水が流れつづける。耳を澄ませば、小川のせせらぎに囲まれている。そんな場所にあります。

いまからおよそ八百年前、初代住職である道元禅師さまが、福井でお寺をたてる場所を探しているときでした。山あいを歩き続けた身体をすこし休めようと、小川のほとりに腰掛け、柄杓で水をすくいのどを潤しました。道元禅師様は、のどの渇きを潤すだけ飲んだあと柄杓の中に残った水を、無造作に捨てることをせずに、丁寧にもとの小川に戻しました。一緒にいたお弟子さんが「どうして戻されたのですか?」と聞くと。道元禅師様は「柄杓の底に残ったたったこれだけの水でも、その流れは千億人の人に及ぶことになるのだ」とおっしゃいました。そんな逸話が残されているそうです。そのことから永平寺の正面の石柱に、「杓底一残水 汲流千億人」の言葉が刻まれました。

現代では、水道の蛇口をひねれば、いくらでも水がでてきます。しかし、一昔前、水道など無い時代、一つの桶に汲んだ水を無駄にならないように丁寧に綺麗に使い、桶に残った水も、これから水を使う、下流にいる多くの人たちの為に、綺麗なまま元の流れ井戸や川に戻したそうです。修行道場でも、最初に顔を洗うための桶一杯の水の使い方を教わります。節水の教え、それだけはでなく、修行道場での生活すべてに通じます。仏様の教えが水のように脈々と流れている場所、そこに一歩足を踏み入れたならば、私たち一人ひとりが何百年と続くその教えを受け取り、また綺麗なまま、後の世に伝えていかなければならないとの教えです

私たちが今なにを受け継いでここにいるのか考えることは、修行道場に留まらず、日々の生活においても大切な生き方ではないでしょうか?

四月、新生活がスタートする人も沢山いることでしょう。そんな時に今一度、思い起こして欲しいのです。お墓参り静かに手を合わせていると心の中を駆け巡るもの。おじいちゃん、おばちゃん、両親、友達、先生、大切な人とのかけがえのない想い出や出会い。忘れられないもの。自分の中に息づいている命。

きれいなものも、嫌なものもいろいろなものを受け継いで私たちは生きています。

その中で自分に流れてきたものに気づくことは、この自身の命に積み重なってきたものであり、自身の中で息づいた大切なものに今を生かされていることを教えてくれます。

そして私たちの言葉や行動の一つ一つが「杓底一残水」として次の人たちにいろいろなものを伝えることを忘れてはいけないのかもしれません。

今年の心持ち

日々の綴りの更新を、なんと一年もせずに申し訳ありません。新しくお役を任命されるなど、忙しさにかまけて足もとを疎かにしていたと反省しております。また少しずつ更新してゆきます。

この度は、野口晴哉さんの言葉を紹介します。

「雪の山道を重荷を負うて登ることは苦しいが、その雪の山道を楽しんで登る人もある。その人々は重いスキーの道具を軽々と肩にしてゆく。だから苦しい楽しいは心にある。働かされることは辛いが、働いていることは楽しい。だから働かされているつもりにならないで、自発的に働くことが肝腎である。冷たい水でも、 浴びせられれば風邪をひくが、自発的に浴びれば、風邪をひかない。めしでも食えなければ餓死するが、食わなければ断食して、丈夫になる。まず自分から動くことだ。自分から出発することだ」

野口さんはこのように「やらされる」と「やる」の心の違いをわかり易く話されています。どちらにせよ。せねばならぬ事ならば、やってやるぞ。本年はそんな気持ちで望みたいと考えご紹介いたしました。