通夜と葬儀

このエントリーをはてなブックマークに追加

なぜかお通夜と葬儀は二日に分かれています。正確なことはわかりませんが、一つの説としてお話したいと思います。

時代は遡りまして、仏法を説いたお釈迦様が亡くなる直前のことです。身体は衰弱しもう寝そべったまま起き上がることのできないお釈迦様。その枕元に悲しみに暮れる多くの弟子たちが集まりました。

そして口々に言うのです。「お釈迦様あなたがなくなったら、私たちはこれら先何を信じて生きていけばいいのか、どうすればいいのか」と。

その弟子に対してお釈迦様は「自灯明、法灯明」といいました。自らを灯明、明かりとしなさい。法、教えを明かりとしなさいといったのです。無常である今の世の中、それはまるで一寸先はどうなるかわからない暗闇のようだ。その中に灯す明かりは一つの道しるべです

お釈迦様は、弟子たちに対し他に寄りかかるのはなく、自分自身の日々の行い心を道しるべとし、仏法教えを道しるべとし、一歩一歩歩んでいきなさいと最後に言って旅立ちました。

その後、枕辺に集まっていた弟子たちは、口々にお釈迦様が生前のこした教えを確認しあったのです。「こんなことを教えてくださったね」「いつも自身に厳しくこんなことをしたね」など、私たちもこれらからそうして日々生きてゆこうと、お釈迦様が最後に残したことば「自灯明、法灯明」改めて胸に刻んだのです。

この出来事がお通夜の原型ではないかと言われています。その後旅立っていた一番弟子の到着をまち、葬儀火葬が行われました。

実は今もインドのベンガル(バングラディッシュ)地方の仏教徒は葬儀のおり、亡くなられた方の遺族が僧侶の後ろにあつまり、故人が生前残した尊いこと、素晴らしいこと見習わなければならないこと、教えてくれたこと、そんな良いことを一つ一つ口に出して数えていくそんな風習が残っているそうです。そちらのことを友人に聞いたところ生前から家族などがノートに一つ一つ素晴らしい所を書いていくそうです。

葬儀というのは、故人が成仏するためのものです。仏と成るとその字も書き、お釈迦さまが亡くなった時の出来事にならっています。人間ですから様々な面がありますが、よろしくない部分は忘れる、または自分自身で消化する。そして、亡き方を仏様として頂くために、良きことや見習わなければならないことを、自身の灯明として、一つ一つを自分のこととして日々生活していく。

1つの供養のあり方です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です