「修行」と「修業」

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私は大学で初めて仏教の授業を受けたときに、「修行」と「修業」、何が違うのだろう?と思ったのです。それまで小中高と学校では「始業式」「終業式」「卒業式」ということを考えれば「修業」で統一すればよいのにとさえ思っていました。

先日、萩本欽一さんの「ダメな時ほど笑っている?」という著書の中に答えがありました。

きんちゃんは、それまで「コメディアン修業」という言葉を使っていたそうですが、駒澤大学の仏教学部に入学しその意味を知ったのをきっかけに、「修行」という字を書くようになったそうです。

「業」には、仕事や、学問、授業という意味があります。業を修めるとは、先生などがいて、正解や答えがあって一定期間それを学び修めることだそうです。だからこそ、終わりがあるので、「卒業」があります。一方「行」には、おこないや、ふるまいといった意味があります。

きんちゃんは、「そうだ、コメディアンにも卒業や定年もないからやっぱり『修行』なんだ」とも言っています。その言葉を見たとき、私は、コメディアンとして生きていくとは、なんて大変なのだろうかと思いました。あれほどの人物でもここまで極めたから終わりやゴールに到着したと言えないのか?と思ったのです。

 きんちゃんは続けて、「自分で行いながら今までになかった正解をどこまでも追求して行くのが「修行」。だから、勉強のゴールは先生から〇(マル)をもらうことだけど、修行には終わりがない。もし自分で自分に〇をつけてしまったらそれこそそこで「終わり」じゃないかな」と言ってもいます。

 私はこのことを自身の人生に当てはめてそことても深い意味を持つのではないかなと感じます。

そもそも仏法の一番代表的な句と言っても差し支えない「七仏通誡偈」悪いことをせず善いことをしなさい、と言われているように、仏教とは人の生きる道を説いた教えといってもいいものです。人生において答えなどその時々で変われば、生きている限り終わりもない。私たちの生き方です。「卒業」はあっても「卒行」はない。

お釈迦様が亡くなる前に弟子たち残した「怠ることなく修行なさい」と、欽ちゃんの言葉。大切にしてゆかなければなりません。

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